ジェノサイド

2000年の高野和明氏の作品。

あらすじ

薬学部の大学院生、古賀研人は突然父を失う。父の死の数日後に、父からの依頼が電子メールで届く。その依頼は「オーファン受容体のアゴニストをデザインし、合成すること」であった。それは肺胞上皮細胞硬化症を患う子どもの命を救う薬になることを知り、研人は友人の助けを借りながらその化学合成を開始する。

そのころ、民間軍事会社の傭兵でイラクで働いていたアメリカ人のイエーガーに新しい仕事のオファーがあった。それは「人類全体に奉仕する仕事」ということであったが、報酬がかなり高いことや作戦の詳細が明らかにされないことから、汚い仕事であることが予想された。しかし、イエーガーには肺胞上皮細胞硬化症の息子がいて、莫大な治療費を稼ぐ必要があったので、その仕事を引き受けることにした。

研人は父から譲り受けてパソコンにあったGIFTというソフトウェアで、アゴニストのデザインをして、その合成を開始する。そしてそれを妨害しようとする力が迫ってくる。現在の科学を超越する機能を持ったGIFTを作ったのは誰なのか、その意図は何か。

イエーガーは作戦の目的がアフリカ奥地にいる数十人からなる民族の殺害(ジェノサイド)であることを知る。そして、いくつかの疑問を持ちつつも現地に赴き、任務を果たそうとしたときに、予想外のことを知ることになる。

日本で薬を合成する研人と、アフリカの奥地からの脱出と帰還を目指すイエーガーを中心に、ホワイトハウスの陰謀を交えてスリリングな物語が展開します。

おもしろいところ

この小説の重要な要素に薬の開発があります。物語では肺胞上皮細胞硬化症という病気の原因が変異型GPR769となっていますが、これはどちらも作者の創作のようです。GPR769はオーファン受容体の一つとなっています。オーファン(orphan)は孤児の意で、オーファン受容体とはリガンドが不明な受容体のことです。もうすでに、高校生物の範囲を超えてチンプンカンプンになってきているかもしれませんので、一つずつ解説を加えたいと思います。

まず受容体から。受容体はタンパク質の一種で、細胞が様々な情報を受け取るために持っています。例えば鼻の細胞にはにおいをかぐための受容体があり、鼻の中に入った空気に含まれるにおい物質と結合します。基本的に一つの受容体は一種類の化合物と結合し、結合することで受容体は活性化します。鼻の細胞の場合、活性化した受容体は神経を興奮させるので、においを感じたということになります。物語では受容体の詳しい機能は設定されていないと思いますが、肺の細胞に酸素を取り込みを促すようなものと思われます。

受容体を活性化させるものをリガンドと呼びます。あとで説明するアゴニストも受容体を活性化させるので、リガンドと同じ役割をもっているのですが、リガンドは本来の生物の仕組みとして受容体に結合するものを指し、アゴニストはリガンドとは異なる分子であるけれども同じ作用をもたらすものを指します。物語では変異型GPR769は変異(L117S)があるため、本来のリガンドとは結合できず、肺胞上皮細胞硬化症になるという設定です。

GPR769は受容体ですが、その分子としての実体はタンパク質です。タンパク質はアミノ酸が重合してできたもので、20種類のアミノ酸の並び順によって様々な機能を発揮します。そのアミノ酸の並び順を決めているのが、遺伝子であるDNAの塩基の並び順です。イエーガーの息子の遺伝子はGPR769をコードする遺伝子に変異があり、それが病気の発症につながっています。

物語ではイエーガー夫妻には病気の症状がないことと、発症した子供は6歳までに死亡することから、変異型GPR769は劣性の変異であると推定されます。イエーガー夫妻は変異型GPR769に関してともにヘテロ接合(保因者)であると考えられます。10万人に1人程度が発症することになっているので、保因者の割合はざっと600人に1人ぐらいでしょうか(40万の平方根)。

ヒトのゲノム(全遺伝子)は2000年に解読され、基本的にヒトが持つ遺伝子は全てわかっています。しかし、個々の遺伝子からつくられるタンパク質がどのように働いているのかはまだわかっていないことのほうが多いです。GPR769もアミノ酸の並び順から受容体としての機能があるだろうということはわかっても、何をリガンドとしているのかがわかりません。それでも、この遺伝子に起きた変異が病気の原因なので、この受容体をなんとかして活性化することができれば、病気の治療をすることができます。それが物語で研人が合成するアゴニスト(治療薬)です。

受容体はタンパク質なので、20種類のアミノ酸が並んでできています。20種類の輪がつながった鎖を想像してみてください。20種類の輪には小さなものも、大きなものもあります。軽いもの、重いものや水になじむものや油のように水となじまないものもあります。ときには磁石のようにくっつきあうものや反発するものもあります。この鎖を水の中にいれると個々の輪同士が様々な相互作用を起こして、全体は複雑な形をつくります。受容体がリガンドと結合するのは、この形を通してと考えられていて、鍵と鍵穴の関係に例えられます。

鍵穴の形がわかれば、鍵をつくることはできそうですが、現在の科学ではアミノ酸配列から正確なタンパク質の構造を推定することが難しく、鍵穴の形を知ることができません。またそれに合う思うような形の鍵(アゴニスト)を合成することも難しいです。

受容体はリガンドと結合して形を変えることで活性化するので、アゴニストは受容体の形の変化を促すようなものでなければなりません。病気の原因遺伝子がわかっても、その治療薬の合成につなげることはとても難しいことです。

物語では変異型GPR769の構造解析(鍵穴の形を推定すること)、アゴニストの設計(鍵の形をつくること)をGIFTがしてくれます。GIFTが設計したアゴニスト候補の中から、研人は自分で合成できそうなものを選び、病気の治療に成功します。そして研人は研究者の喜びを知って、自分の進む道を決めます。

薬の開発以外にも、人類の進化も織り込まれていて、こちらも専門知識があるとより一層楽しめます。